博士論文は、出版しなければなりません。なぜならそれは、誰もが知らない知識だからです。あなただけが知っている、世界のひみつだからです。印刷が義務付けられているから本にするのではありません。あなたが発見したその知識が、埋もれないために本にしなければならないのです。
と、出だしから格好のよいことを書いてみましたが、嘘ではありません。新しい知識が何も生まれない世界というのは、言うなれば、何もよくなっていかない世界ということです。問題が解決されない世界と言い換えることもできます。はは、ちょっと一方的な言い方すぎましたかね?
今回考えたいのは、博論を書き、出版する際に必要となるひとつの視点に関してです。研究者であれば、まず考えるべきことかもしれません。それは、博論でもなんでも、新しい知識を伝えるのであれば、必ず「読者の教育」が必要になるという視点です。
さて、ここで言う「読者の教育」とは何でしょうか。この話をしようと思うと、「知らないことはそもそも知らないので、知らないことを知っているという状態はあり得ない」というプラトンの『メノン』のような話になるのですが、そもそも新しい知識を伝える論文には、その知識が新しければ新しいほど、読者がいないのです。つまり、新しい知識を伝えるためには、まずは読者をつくることが必要なんです。
僕は似たような考え、たしかどっかで以前よんだことあるのですが、どわすれしてしまいました(もし知ってる人がいたら、お問い合わせから教えてください…)。しかし、ここで言いたいのは、新しい知識を作っている自覚があるのならば、どうやったら読者を教育し、その新しい知識に興味を向かせるかを考えることが重要だということです。
この作業を怠って、やさしい本ばかり出版していると、難しい本まで行きつかなくなってしまうような気がします。今度、機会があったら、研究者のみなさんに、最初古典的な学術書を読むときどんな感じだったのか、なぜ読もうと思ったのかについて、聞く機会をつくってみたいです。そこに共通したきっかけを見出すことができれば、書くのはきっともっと楽になるだろうから。
最後に、ヒントになるようなことをひとつ。情報の提示は、一般的に旧→新の順番で進んだ方がわかりやすいとされています。つまり、みんながすでに知っていることから、まったく新しいことにつなげるということです。何にせよ学術書の場合、みんながどこまで知ってるかもわからないことがあるので、難しいですけれどね。
※この記事では、今後も人文科学、社会科学、自然科学といった分野に特定せず、アカデミック・ライティング(学術文章)の書き方や博士論文の出版について、有用な情報を発信していきます。
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